参加者:CL荻野(3)、SL杉森(3)、亀岡(2)、野下(1)
9/21 移動日
0430 片平集合
0500 出発
0930 弘前
1430 奥赤石公衆トイレ 幕営
今回の赤石川の印象を一言で述べるのであれば、紆余曲折あったなぁ~、という印象である。計画を立てる段階でも色々あったが、それについてはCLに譲るとして、僕は沢に入渓するまでにあったこと、つまり赤石川源流行のプロローグにあたる最初の3日間の部分を語ろうと思う。
まず、赤石川の上流半分を遡行する計画で、遡行開始点と終了点が大きく異なっていたので、弘前までレンタカーで行き、そこからタクシーを使うことになっていた。弘前に着くと、タクシーを予約していた時間まで余裕があったので、人によっては観光などをして楽しんだ。かくいう僕も観光をした人間で、弘前城に行った。
弘前城は、天守閣もあり、かなり立派だった。普段我々が住んでいる仙台にある青葉城(仙台城)跡は、かなり質素で、そんな感じかな、と思っていただけに、軽く感動すら覚えた。
弘前城の門
弘前を13時半に出発し、タクシーに1時間くらい揺られると、0日目(移動日)の幕営地、奥赤石公衆トイレに到着した。弘前から公衆トイレまでの道はかなりの悪路だったが、半分以上寝ていた筆者はあまり、覚えていない。ただ、車酔いしていたメンバーもいた。
公衆トイレのあたりは、本当に森しかなく、サルが平気で道を歩いていた。電波も入らないので、すっかり人の世界と隔絶した場所に来てしまったな~、と思っていたら、割とこのトイレ前の道路を、数十分に1回、車が通っていた。あの人たちは、何をしにあんなところまで来ていたのだろうか…。
あまりに人がいないので、森の方に叫んで遊んでいたら、すぐ前の茂みからサルが飛び出して逃げて行ったのを見て、夜襲われないか、と恐怖しながら就寝した。
幕営地 本山行ではテントは使わず、タープを用いた
9/22 天候:薄曇り
0400 起床
0545 出発
0745 赤石ダム 入山
1000 転回決定
1030 下山
1345 櫛石山登山口 幕営
1日目、起床すると、大量に顔や腕を虫(主にヌカカ)に刺されていて、ものすごく痒かった。赤石川は、たとえ入渓していなくても、虫よけ必須である。朝食を食べ、出発し、2時間ほど林道を歩くと、入渓点の赤石ダムに到着した。ただ、行動記録から見ても分かるように、我々は入渓することが出来なかった。赤布は見つけることが出来たが、そこまで行く道が見つからず、ダムの中に入ってみると土はヘドロ。9月の下旬の青森の山奥ともなれば、水温はかなり低く、泳ぐこともかなわない。結局、2時間ほど道を探したが見つからず、元々天候不順等を理由に行動日程が少ない時に使う予定だった櫛石山登山口を経由して、入渓することにした。そこから、1時間ほど来た林道を引き返し、さらに別の林道を1時間ほど歩いて、櫛石山登山口に到着、幕営した。道中、あまりにもすることがないので、ワードウルフで遊びながら歩いたが、割と人狼が当てられていて、パーティーメンバーの仲の良さがうかがえた。
1日目の幕営地にもサルと吸血虫がうじゃうじゃといた。
写真真ん中より少し右下 大量に赤布が付いているのが見える
その赤布の上部
9/23 天候:雨、一時薄曇り、のち雨
0400 起床
1120 出発 再入山
1320 クマゲラの森
1420 赤石川 入渓
1430 滝川出合 幕営
2日目、朝4時に起床すると、強い雨が降っていたため、雨が弱まるのを待ち、出発ということになった。結局、11時過ぎに出発したのだが、メンバーのほとんどが、日頃の睡眠負債を返済すべく、寝ていた。筆者は、移動日だった0日目、1日目と、行動時間以外のほとんどを睡眠に費やしており、白神山地まで来て、沢にも入らず何しているのだろう、と思っていた。
出発後、しばらくは普通の登山道が続いていたのだが、2時間ほどでクマゲラの森に着いた。クマゲラの森は、さすが世界遺産というのか、うっそうとしていて、あんまり人が入っていないような雰囲気で、仮にここで道に迷ったら、絶対に出てこられないだろうな、といったことをぼんやり考えながら、歩いた。そこから、さらに1時間、途中から支流に入って沢下りをしながら下っていくと、赤石川本流にたどり着いた。
支流から赤石川に出て、赤石川を見た時の感動は、筆舌に尽くしがたい。今まで2日間、沢登りに来たのに、延々と林道と藪漕ぎのような登山道歩きをしていたことも相まって、赤石川の壮大さ、また、その赤石川に入渓出来た感動などを感じ、入渓出来ただけで、来た意味があったと思った。
そこから、10分ほど歩き、滝川出合に到着、幕営した。ただ、雨で体が濡れていたのもあって、震えるような思いで過ごした。翌日の行程は、今日1日の雨も勘案し、翌朝の水量によって判断、ということになった。
赤石川本流
ここまでで、プロローグは終わりまして、翌日からいよいよ赤石川の遡行が始まります。是非、3日目以降の山行記、お読みください。
(野下記)
9/24 天候:雨のち晴れ
0400 起床
0700 出発
0930 石滝
1145 魚止め(ヨドメ)の滝
1400 泊り沢出合 幕営
“朝目が覚めて真っ先に思い浮かぶ君(太陽)のこと、思い切って口を開けた「これ(雨および山行自体)どうすんの?」って聞きたくて。”
山岳部はオタクの集まりみたいなところがあるのでこれ伝わるかな?みたいな心配はしていない。メルトどころか寒すぎてシュラフカバーから体を出すことさえできなかった。時刻は4時。あと3時間で天気は回復するのだろうか、これでダメだったら一体何のために凍える夜を過ごしたのだろうか。そんなことを考えると辛くなってくる。
”無理だなんて絶対に言えない。”
寒いからという理由で後輩に朝ごはんを作らせ(スーパーパワーハラスメント)、その隙にシュラフカバーの温もり(幻想)にしがみつく。荻野と出した結論としては7:00に行動を開始したとしても8:30を最終引き返しリミットとすれば安全に下山できるというものであった。結局7:00には雨が弱まっていたこと、広い川幅のおかげで大して増水していなかった事を加味して先へ進むことにした。幕営地から魚止の滝までは単調かつ穏やかであり、仙人の杖を拾ったりしながら久しぶりの陽射しに感謝しつつ進んだ。
これは仙人の杖
魚止の滝(ヨドメの滝)は事前研究で見たものよりも若干増水しており、みんな「おぉ〜〜」と感心し、圧倒されていた。想像していたより激しいが僕達はこんなところで止まらない。魚ではないので。仙人の杖に別れを告げ、左側(右岸)の階段状になっているバンドを登る。右岸側がバンドの下部まで繋がっていたのでそこまで移動しロープを出した。ロープが少しずつ濡れていく様を眺めながら、これを背負うのか…と虚無を感じていた。登り終わってから少し進むと、またしても河原が広がった。
その後も特に問題なく順調に進み、結果として少し巻いて泊り沢の出合に幕営した。この辺りからタープの設営方法が確立され始め、速やかに快適な寝床を用意することができた。天気さえ良ければ沢は楽しいね。
これはヨドメの滝。
9/25 天候:晴れ
0330 起床
0600 発
0730 25m滝
0950 15m滝
1215 二ツ森登山口コル 遡行終了
1240 二ツ森山頂
1400 二ツ森登山口 下山
この日は泊り沢を遡行する。泊り沢は滝が多く難易度がわかりにくかったため、起床を早めた。しかし今回の目標である荷物の軽量化により私たちの幕営装備はタープとシュラフカバーだけであり、寒すぎて結局計画通りの時間に出発した。そして、私はここで初めて沢のトップをやらせてもらった。予備山行の葛根田の時からずっとやりたいと思っており、念願かなったのだがはじめは緊張と寒さではたから見てもはっきりわかるくらい動きがぎこちなくなった。特に赤石川の岩にはとても滑りやすいものがあり、その岩の上で二回足を滑らせ大きめのあざを作った。しかも私がトップをやった時間は2ピッチもないくらいなのに。それでも終盤はだいぶ落ち着いて歩けた。その後は25m滝の高巻きにやや苦戦したが大きな問題なく進んだ。簡単な滝をちょこちょこ登るのは楽しかった。最後の最後に結構ハードな藪が待っていたが、それを超えると二ッ森の登山道に出た。この時はさすがにみんな感動していた。そのまま二ッ森の山頂まで行ったが、思ったより登りが長くて三年生が野下に当たっていた。そこからなんとかタクシーを呼び、下界のキャンプ場できれいな夕陽を見て去年を懐古した。
今回は去年から計画が立っていた白神の沢に、ついに行けて本当によかった。行きたい山は簡単に諦めてはいけないと感じた。最後に、私は今回の沢で今シーズン買ったばかりの雨具をなくした。ノースのライトグリーンのかわいいやつ、気に入っていたのに…まあ完全に自分が悪い。でも、だれか見つけた人がいたら私までください。新しいのくれる人もいたらご連絡お願いします。
(亀岡記)
“魚”止めポーズ ヨドメの滝にて
総括
○赤石川との出会い
赤石川。最初にこのルートを知ったのは2014年のことであった。高中山岳部の山行で夏に行くことになった葛根田川の情報を集めていた際に参考にした、『岳人』2014年6月号掲載の「Gakujin 100 Routes」企画。葛根田川の隣の頁にそれはあった。文章から伝わるその雄大さ、そして何より串刺しのイワナが焚き火の前に並ぶ写真に惚れた。「いつか行ってみたい」漠然とそう思った。
それから月日は流れ、仙台に居を移し、みちのくの山屋となった。せっかく東北に居るのだから今しかできない山をやりたいと常々考えていた。東京に居るときには余りに遠く“夢”に過ぎなかった白神山地が、幾分か地理的に近くなり、心理的にはかなり近くなった。“夢”が“目標”になったのだ。山スキーでも魅力的な地ではあるものの、やはりその雄大さ、山深さ、ブナ林の自然、そういったものを肌で感じられるのは沢登りだろう。
2年次から白神山地で沢登りをする機会を狙っていたが、3年次の7月の週末と夏季個人山行でその機会を得るに至った。ただ、大きな障壁が2つあった。一つは情報の少なさ。もう一つは法規制である。
○情報不足の克服
近時、不案内な山域へ入るにあたって多くの者が頼りにするものは、第一にはやはりWebの情報だろう。雑誌やルート集を通して知った山でも、結局はインターネットで記録を探して参考にする。時期や天候が異なる記録がわんさとヒットし、写真も沢山あって、沢に関しては遡行図も手に入ることが多い。斯く言う私もご多分に漏れず、Webの情報を参考に計画書を作ってきた。出版物に記載が無い沢やコースの情報があることも多い。昨夏訪れた八甲田山系の井戸沢などはまさにそうである。インターネットの発達とそこに情報を掲載する者の増加により、山の選択肢が広がり、計画立案の負担が減ったことは事実であろう。そういったラディカルな変化がもたらす弊害も多いとは思うが、Webの情報を利用し、このように情報を掲示する者の一人として、あえてその是非や禍害を論じることはしまい。
しかしながら、こと白神山地の沢登りに関しては情報が少ない。ポツポツと入渓した記録もあるが、子細を語るものは多くは無い。後述する法規制との関係もあるのかもしれないが、絶対数の少なさが要因の一つであることは間違いない。そうなると、書籍に頼るウェイトが大きくなる。幸い計画を立てたいと思ったのが早かったことも有り、実施まで1年という時間的スパンの中で丁寧に情報を集め、整理することができた。
部の所有も含めて手軽に手にすることができる書籍では『登山体系』に記載があった。無論、有益であることは間違いないが、私が求めるのはもっと温かみのある、つまりは実感がこもった紀行文であった。まず糸口として期待したのは書庫である。旧制高校を引き継ぐ伝統を有する山岳部だけあって、古い記録・書籍は埋蔵金のごとく眠っている。現在は、クライミングウォールなる遊興施設がメインとなり、本棚は端に追いやられ、ほこりを被り、カビ臭い。そんな書庫に籠もって○○時間…と言いたいところだが、事実を述べればものの15分でキラリと光る一冊の雑誌を見つけた。それはつり人社発行の『別冊つり人 渓流 ’89』である。もっとも、白神山地が沢登りの対象として広く認知されたのはここ半世紀の話で、戦前の資料をひっくり返しても無意味であることは織り込み済みであった。斯くして掘り出した埋蔵金には、なんと赤石川の支流の遡行図まで載っているではないか。山屋が書いた記録文では無く、渓流師(たにし)が書いた紀行文。こういった文章こそが、谷への思いを募らせ、イメージを膨らませるのである。釣り人だからと馬鹿にしてはいけない。彼らの方が下手な登山者よりも丹念に地形を観察し言葉にして残してくれるのである。通り過ぎることを目的とする登山者よりも、その場所に辿り着くことを目的にする山人の言葉こそ傾聴に値する。この雑誌は7月の西股沢での計画で非常に役立った。たった1冊釣りの雑誌を残していてくれた先達に幸甚の至りである。
次に手がかりを期待したのは根深誠氏の著作である。氏は明大山岳部OBの登山家であると同時に、白神山地をホームグラウンドとする“地元の人”であり、その著述は、時には歴史的な背景を述べたり、また時にはマタギ道を紹介したりと、これまた憧憬を募らせるものであった。さらに、『日本百名谷』や『源流の岩魚釣り』、『新版 白神山地』(私が得ることができた中で最も古い遡行記録;1970年)といった名著に出会い、赤石川の細部にわたる情報も確実に積み重なっていった。やはり、インターネットの発達が便益を提供してくれることは間違いない。絶版になっている本でも、大抵はAmazonで見つけられ、しかも安価に迅速に入手できる。
また偶然にも、昨年、本年とほとんど同じルートで入渓した記録をWeb上で発見し、豊富な写真で直近の様子を窺い知ることもできた。記録を掲載しているブログに返信する形で遡行者ともコンタクトをとり、滝の通過方法についても助言を得た。
こうして、持て余すほどの情報を得ることができたが、どうも支流の名、源頭の分岐や滝の順序といった細部が一致しない。半世紀の間に積み重ねられた記憶と記録、さらには思いがまぜこぜになっているのだから当然とも言えよう。私は手始めに、1/25000地形図に支流も含めて丹念に水線を引き、支流の名を確定させる作業を行った。16kmほどの赤石川の遡行対象部分には名のあるものだけで30近い枝沢が流れ込む。次に、本流にある二つの滝、石滝とヨドメの滝の同定作業。最後に、源流部泊り沢の枝沢と滝の同定。古い記録ほど丹念に記載されているのは時代の変化を物語っているようだ。50年前の遡行図と近年の遡行報告を照らし合わせるという奇妙な作業を経て、オリジナルの遡行図を作成した。後日談になるが、この遡行図と実地はよくかみ合っていて我ながら感動した。
山岳部では通例、大きな山行にあたって「ルート研究」を作成し、行程の情報をまとめることで隊員間、さらには部会との情報共有を図っている。本山行の「ルート研究」の執筆にあたっては、上記の様に集めた各種情報に加え、沢での気象に関する知識やエスケープルート、帰りの交通手段、パーティーガバナンスの考え方、世界遺産地域に入山するに際してのコンプライアンスについてまで幅広くまとめた『旅のしおり』を作成した。こうして綿密に準備することが実地での余裕に繋がるのである。付言すれば、私は計画を立案する上で「どんな山をしたいか」ということを最も大切にしている。情報を一元的に整理すると同時に、この山行に込める思いを記したのが『旅のしおり』であった。そこに紡ぐ一文一文が私の山に対する姿勢、考え方、思いであるのだ。
○自然保護とは何か
白神山地は日本最初の世界自然遺産の一つである。その登録理由は<人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が世界最大級の規模で分布>していることである。登録までの紆余曲折とそのことが内包する問題点を改めてここで提起していては、紙面が足りなくなるから控えよう。
一つだけ記しておくべきは、ブナ林の伐採と道路建設を推進していた林野庁が、世界遺産登録を境に入山規制などの規制行政に舵をきったことである。さながら意趣返しである。入山について具体的に示せば、世界遺産の核心地域については、秋田県側は入山禁止、青森県側は27のルートが指定され、事前に津軽森林管理署に申請すれば入山できる、というものである。※ 私はその法的根拠に疑問を感じ、関係する行政機関に対し質問状を送った。というのも、そういった規制をする動機としてまず考えられる“自然保護”という観点から関係法令を精査しても、法的根拠に辿り着けなかったからである。そもそも、白神山地の大半の部分は国立公園や国定公園、県立自然公園では無く、自然公園法や自然環境保全法によって立入を制限され得ないのである。
質問状に対する回答を要約すれば、世界遺産地域の大半は国有地で有り、国有財産保護の観点からの立入規制であるという。つまり、人の立入によって国民に共有されると観念される土地が毀損されることを未然に防いでいるという、論理の組立てである。白神山地の管理主体は林野庁東北森林管理局である。森林管理局長は法及び施行規則により、国有財産保護の観点から立入規制区域を設定できるが、これは行政法学上の要請では無く、あくまで国有財産に係る私権の行使と講学上は捉えられる。当該立入禁止の公示は「人の住居若しくは看守する邸宅」等に係るものでもないため刑法にも抵触しない。すなわち、立ち入ったからといって、直ちに公法上の“罪”、私法上の不法行為を構成するものではない。その地域に立ち入ったうえで、例えば採掘や伐採によって国有財産を毀損した場合にのみ、不法行為として、民事法上の手続きに移行するトリガーとなり得ると考えるのが相当であろう。
上記を、自然環境を保護し維持するための手段、と好意的に解釈したとしても、やはり納得のいくことでは無い。「自然」という語を辞書で引くと「人為」の対語として紹介される。しかし私は、「人為」すらも「自然」という語あるいは概念は含意、包摂するものであると述べたい。ヒトも自然を構成する一要素なのではないか。ヒトが自然を利用し、その恵みを享受することもまた自然なのである。白神山地はマタギや地元の人にとっては生活の場であった。全く利用しない、その推移に関与しないというありがちな“自然保護”は真の自然保護とは言えない。ヒトと自然環境の適切で持続可能な関わりを守っていくことこそが自然保護なのではないか。
立入だけで無く釣魚についても同様のことが言える。青森県内水面漁業調整規則により、(株)東北電力赤石ダム上流端から上流の赤石川本支流域は禁漁区に指定され漁業及び遊漁が禁止されている。しかし、この法令の保護法益は何であろうか。ダムにより、上流と下流さらには海の魚は隔絶されている。故に、上流の魚を捕ったからと言って、下流域や海の漁業者の生業に影響をもたらすわけでは無い。仮に、世界遺産地域に住むイワナの保護が“自然保護”というそれらしい公益の保護が目的でであるとする。しかし、この仮定でも先述の立場に立てば正当性を獲得できない。ヨドメの滝は魚止の滝と書くように、かつてはその上流にイワナは居なかったが、マタギが移植、定着させたのである。赤石川に限らず、各地でそうしたことは行われてきた。現在の辞書的な意味での“自然”と思われたイワナの生息でさえも“人為”によって成立しているのである。すなわち、イワナを移植し適量を釣るというヒトの暮らしも含めての自然で有り、保護されるべきは暮らしも含めた自然なのではないか。
「環境の恵沢の享受と継承」すなわち、ヒトの暮らしと自然環境の共存と維持こそが環境基本法3条に定められた基本理念なのである。それを、一見聞こえはよい“自然保護”という言葉によって、ヒトの暮らし、つまりは社会経済活動と自然環境を断絶して別個のものとして捉え、囲い込むように規制することは、リーガルマインドに欠ける。行政機関は、人の暮らしに目を向け持続可能な自然環境の利用に腐心すべき所、立入制限や釣魚の禁止といった厳しい規制によって管理しようとすることは、怠慢の誹りを免れない。
ただ実際には、“禁止”と公示した上で、サンクションを定めないことによって、それでも入林する奇特な山人や沢屋を事実上黙認し、自然環境を変化させるほどの利用を防いでいるのだろう。法の建付けと運用との狭間で理念と現実の平衡を保つ行政官の腐心には敬意を表したい。
※今回の山行にあたっても、定められた手続きに従って申請を出し、実施しています。
○山行を実施しての所感
♪<北へ行くのね ここも北なのに><低気圧に乗って 北へ向かうわ>朝ドラ『あまちゃんの』の劇中歌『潮騒のメモリー』の一節である。休業期間だというのに寝不足で朝から昏々と眠っている三名の同行者を乗せ、陸奥路をひた走った。ふと件の歌を口ずさむ。まさしく我々の状況を歌っているではないか。そう、千葉県で大規模な暴風被害をだした台風15号から二週間。台風17号が東シナ海でUターンし、対馬海峡を通って、東北地方に着々と近づいていたのだ。しかも、上陸予報地は青森県。
それでも我々は(少なくともCLである私は)最大限計画を遂行できるように頑張らなければならない。よく、「折角来たのだから」が一番危ないと言うがそれは一面では正しい。翻せば、全面的には正しくない。「折角○○だから」と“無理”をすることが危ないのであって、そういった心境の中でも冷静に状況を分析し、可能性を探ることがCLの務めであると思う。
台風の中沢登りなんて正気の沙汰ではないと思われるかもしれない。それでも、赤石川中流域の開けた渓と河原、エスケープルート、さらには偏西風に乗って走り去る台風、過去のアメダスデータと天気図から想定される雨量を考慮に入れれば勝算はあった。それもこれも、丹念な準備の賜である。台風という重大な局面を前にしても落ち着いて居られたのだ。
本計画は、前夜泊と予備日も含めると最大4泊はインターネットを使える環境に無く、事前の天気予報と気象通報等のラジオ、観天望気から天気を予測し行動しなければならない。トラディショナルな登山スタイルである。とは言っても、予報精度も格段に向上し、特に台風などは予測できる災害といわれるように、針路や雨量はある程度計算できる。
弘前から利用したタクシーの運転手は1991年のリンゴ台風のようになることを恐れていた。ダートの林道を揺られること1時間。弘前と日本海側の西目屋を結ぶ弘西林道が赤石川を横切る地点にある、公衆トイレ併設の「やすらぎの駐車帯」でタクシーを降りた。いよいよ我々は外界から隔絶されて、この深山幽谷を歩いて出るしか帰り道は無い。サルの咆哮が方々から聞こえる。森の深さを実感した。
この先の行程については、メンバー各人の日ごとの山行記に譲る。されど一点だけ、赤石堰堤から入渓できなかったことは慚愧に堪えない。これにより遡行予定部分の1/4を通ることができず、行動1日目は余計に林道を11km歩くことになった。ただ、クマゲラの森からの入渓は7月の西股沢計画でも使っており、2日目の本降りの雨の中でも安全に赤石川に降り立つことができた。まさに、百聞は一見に如かずだ。
滝川との二股で台風から変わった温帯低気圧をやり過ごした。ピークは夜半過ぎだったであろうか。まず20時過ぎに温帯低気圧が通過し急に南風が強く吹き気温が上がった。その後寒冷前線の通過を思わせる気温低下と強い雨があった。沢登りとは切っても切り離せない焚き火も無く、タープにシュラフカバーとミニマムスタイルの我々は、強風と降雨、気温低下で眠れない夜を過ごした。実際には閉塞前線が通過していたようだ。沢の野宿という天候変化を敏感に感じられる環境で、台風、もとい温帯低気圧が真上を通過した経験はなかなか面白かった。結局、台風17号は九州では一定の被害を出したものの、東北への被害は少なかった。我々にとっては幸いだった。
ラジオから得られる情報は、「気象通報」だけでは無い。「気象通報」を基に作成する地上天気図は、毎日12時のものだけで、もちろんそこから予報し行動を練るわけだが、天気図としては答え合わせをしているだけとも言える。その点、深夜、毎正時前に放送される「天気概況」や朝の「気象情報」はその日の天気の変化を地域ごとに伝えてくれるため、かなり有用である。深夜もラジオを握りしめ、情報収集に努めた。正時に合わせて目を覚ますのは難しく、何度か聞き逃しはしたが…。
行動3日目。前日夕方から、この日の判断を話し合っていたが、いかんせん、朝起きて実際の天気、川の様子を見ないことには決められない。出発予定時間は雨がポツポツ降っており、当然ながら川も増水、流れが速くなっていた。また、白神山地は低気圧通過後に西風が吹きやすく、その影響で天候回復が遅れることも事前に学んでいた。それでも、前夕作成した天気図での予測と気象情報を信じ、昼前には急速に回復し、当分好天が続くことに賭けた。賭けたというとギャンブルのようでCLの判断として問題だとのご指摘を賜るかもしれない。(こんな所まで読んでいる方が居ればだが)。ただ、決断するという行為は最も重要であると同時に難しいことであると思う。冷静な分析のうえで、たとえ見切り発車気味であっても、必ず善後策を持ち合わせた上で、決める。悠長に構えていられないときもある。
まさに、この場面。これ以上出発を遅らせては、今日中に次の幕営予定地に着けないかもしれない。そうすると、翌日の下山が怪しくなる。既に予備日を使ってしまっている。されど、じきに晴れそうなのに踵を返すのはあまりにもったいない。この先の渓相、流入域の広さ、増水と流れの速さ、天候・・・あらゆることを考慮に入れて、行けると踏んだ。故事を引けば、人事を尽くして天命を待つ。引き返しのリミットは定めた。あとは、それまでに晴れるか、少なくとも遡行が継続できると自信を持って言えるような天候になってくれることを祈るばかりであった。賭けたとはそういう意味である。
9時前。出発から2時間弱。雲の切れ間から青空が顔を見せた。60時間ぶりの青空は微笑んでいるようであった。お天道様は我々を見放さなかった。こうして、3日目、4日目はそれまでとは打って変わって太陽の日差しを受けて、快適な沢旅となった。
このように幽谷を逍遥する機会は人生でも何度とあるか分からない。寂寞たる山渓に慕情を抱き、彷徨する機会を得て、丹念に準備をし、こうして困難を乗り越えて山をやりきることができた。Not all who wander are lost. 遡行を終え目にした日本海に沈む夕日はこの上なく美しく、沢との出会いから実施、そして下山に至るまでを振り返って、哀愁とか寂寥といったセンチメンタルな思いが去来した。パーティーの皆、部会の面々、助言を頂いたOB諸兄や部長、そして何よりこの地を愛し、この地を使い、守ってきた先人たちに感謝したい。
雲があるのもまた一興
○“釣りのバイブル”との出会い
『釣魚大全』についてはこの山行を語る上で避けては通れない。
“Study to be quiet” (穏やかなることを知れ)
計画書の「目標」項に記載したこのことばは件の本の末尾を飾る文句である。1653年にロンドンで刊行されたこの本は、角川選書の宣伝文句を引用するなら<世界の釣り人から「釣りの聖書」と賛えられ、釣り人でこの本を知らぬものは、恥辱であるとさえいわれる><歴史的名著>である。書評では無いから内容に深く立入はしない。しかし、一点だけ言い添えたい。この本の神髄は釣りという行為を端緒に自然に対する姿勢を説くことにある。多分にキリスト教的世界観の影響下にあるものの、宗教を超えた、あるいは宗教以前のヒトの在り方を提示する。釣師・猟師・鷹匠の会話や巨匠と弟子の語らいを通して魚の特性や道具、技法について教示しているようで、そこに通底する精神について語っているのである。何かを成すことに喜びを感じるのでは無く、何事も無いことにこそ幸せを感じ、感謝するべきなのである。それが“Study to be quiet”ということだと私は理解する。されど、私は著者のアイザック・ウォルトンのような高尚な貴族では無く、日々をこせこせと過ごす一大学生に過ぎない。目標の山を成せば嬉しいし、思いを致した斜面にシュプールを刻めば喜び、惚れた沢を遡行したら誇らしくも思う。それが普通のヒトの有り様だと思うし、それでいいとも思う。それでもやはり、“Study to be quiet”を会得したい。その道標として<良心を失う者はみにつけるにふさわしいものを残さず>という一節を胸に抱いてこの先の山をやり、人生を歩もうと思う。
○むすびにかえて
最後に『旅のしおり』の巻頭の言葉をここに引用し、本山行の総括としたい。
<<<本山行の行程を一言で表せば「何もない」ということができる。「何もない」川とはどういうことか。どんなイメージを抱くであろうか。ただ延々と水が流れていてそのうち涸れるとか、滝がないとか、見所がないとか、人それぞれあるだろう。ここで私が「何もない」という言葉を使った真意は「言うことが何もない」ということである。白神山地の渓に関する数少ない資料を、書籍を買い集めたりネットサーフィンをしたりしてどれだけ集めたところで、そしてそれによって渓の概略や様子をつかんだとしても、それは実際に行って渓を体感することで得られるだろう情報―いや、情報などというありふれた言葉では表せない“知”―には全く及ばないのである。そうであるならば、ここで私が「ルート研究」などというお題目を掲げて記すことは何もない。彼の地に足を踏み入れブナ林と幽谷を逍遥した者のみが、各々の感覚でその渓を“知り”得るのである。
そうは言っても、山岳部の山行である以上、とりあえず行ってみようとはならない。1970年の、遡行記録としては最も古い佐藤、坂本両氏よろしく予備知識なしというわけにはゆくまい。ここでは、人の感覚に依拠するもの、つまりは難しいとか悪いとか美しいとか価値観の影響する領域には踏み込まず、何があるか、あるいは先達はどの様に通過したかという事実のみを記すことにする。そのため通例、研究と称するところ、2項には概要という名を冠したい。
さて、縷々述べる前に―もちろん既に縷々述べているという指摘をされるかもしれないが―もう一点だけ前置きしたい。それは白神山地で沢登りをするということについてである。白神山地で沢登りをしようと思って地形図を見れば、南北に水線が数本引かれていることに気がつかぬ者はいない。西から笹内川、追良瀬川、赤石川、大川と並ぶ。これらの渓を単に遡ることは誰でも考えつく。白神での山行を考える醍醐味はルートの創造にある。すなわち、どう横断するかというところに個性が出る。南北に走る主要な河川をどの支流を遡ってあるいは下って繋げるか。そして大局的にどことどこを繋ぐのか。そういったことを考えて初めて、白神に入った、沢登りをしたと言えるのかもしれない。さりとて、そのような壮大な計画は我々にはまだ身分不相応である。もちろん、過去の記録を見比べてその通りにトレースするのであれば不可能ではないだろう。しかしそれでは意味が無い。自分だけのルート、記録もないような未知の支流を使ってこそ、なのである。そのような夢物語は将来の夢として、今夏に現実的に実現可能なのは南北に走る渓をただ遡ることでる。ただ遡ると言っても、言わずもがな簡単ではない。我々はその中でも、白神山地最大の渓、赤石川を選定した。>>>
(荻野記)
【ルート詳報】
遡行図と合わせてお読み下さい。紀行文ではありません。いつか誰かの役に立てば幸いです。
<弘西林道~赤石堰堤>
奥赤石公衆トイレ(やすらぎの駐車帯)から弘前方面へ5分ほど、赤石大橋と乱岩沢橋を渡ると右手へ行く分岐があり、すぐゲートがある。ゲートは右側から通り抜ける。4kmほど行くと右手に分岐がある。ダムの増水を注意喚起する看板と鎖を張ったゲートがある。ちなみに、左手は櫛石山登山口へ続いている。さらに4kmほどアップダウンを交えて行くと終点だ。広場のようになっていて、左手奥の小道を行くと赤石ダムの管理小屋に行くことができる。遡行者は右手の木製の看板から続く踏み跡を行く。すぐに湖面の高さまで下り、流入する沢を越す。ここで我々はダムの巻き道を発見できなかった。水深は浅いところで30cm位だが、ヘドロが堆積している。30m先の木には赤布が沢山ついていたが、異臭を放つヘドロに足を取られ行くことができなかった。恐らく、湖岸から高さ5~20m位の間に踏み跡が有るのだろう。
<赤石堰堤~櫛石山登山口>
赤石堰堤からの入渓を諦め、赤石川からのエスケープに設定していた下二股-クマゲラの森-櫛石山登山口を逆から利用して、下二股から赤石川に入渓することとした。赤石堰堤から4kmほどで櫛石山登山口へ続く林道との分岐に戻る。分岐300mほど手前に水が流れているポイントがある。櫛石山方面に行く場合、ここが最後の採水可能地点である。分岐から、斜度3%位の林道を延々7kmで櫛石山登山口に着く。
<櫛石山登山口~下二股>
はじめは顕著な踏み跡(既存歩道)である。櫛石山山頂を東側から巻くように続き、南側へ延びる尾根上を行く。P623からさらに下ると、T字路となる。左(東)は郡界尾根を経て西股沢、暗門へと続く。右(西)は開けていて、クマゲラの森がよく見渡せる。地形図と感覚を頼りに踏み跡らしきものを辿り、それが消えると、なんとなく谷地形を目指す。所々藪に覆われているが、下草程度の場所が大勢で視界は利く。ブナの巨木がそびえ立ち、倒木も多い。白神山地ここに有りというブナ林の中を下る。やがて、水流の音が聞こえ、その沢に降り立つ。普段の水量は多くないが、この時は降雨で濁流となっていた。滑りやすい所はあるものの、滝は無く丁寧に下りていくと、突然視界が開け、赤石川に降り立つ。対岸には幕営適地がある。降雨で水量は増え、流れは速くなっていたが、川幅が30m程と広いおかげで膝丈程度の水量ですみ、遡行に問題は無かった。10分ほど赤石川を遡ると滝川との二股、通称下二股に着く。合流手前の左岸の一段高くなった場所に幕営適地がある。増水の心配をする必要はない。
<下二股~上二股>
赤石川本流と滝川は1:1である。右岸、左岸を盛んに渡渉して進む。河原を歩く場所も多い。やがて右岸からヤナダキ沢が2条の滝を掛けて合流する。向かって左側は3mで(右側は5m)でこれを登ると郡界尾根に行き着き、暗門に下ることもできる。余談だが、出合から3分ほどにある20mの大滝は荘厳で一見の価値がある。階段状で、平水時なら容易に登ることができる。右岸のアブラッコ沢、左岸のノロの沢を過ぎると間もなく石滝である。滝壺の左岸は苔むした、黒い10m位の岩壁でそこを水が滴る様子は大変美しい。石滝は奥行き50mほど段々状に続く滝で、通過に困難は無い。滝ヶ嵓沢(左岸、以下同じ)、コメの沢(右)、ヨネジャの沢(左)、下ヤシの木沢(右)、上ヤシの木沢(右)、サワラ沢(右)、魚止め脇の沢(右)を超え、大きく蛇行すると、轟音とともに水が流下するヨドメ(魚止)の滝だ。増水もあって圧倒的な水量。ちょうど落ち口の上に太陽があり、神々しさすら感じる。右岸の涸れ沢を詰めて巻くこともできそうである。右岸のバンドから直登する。始め3mほどは真上に登る。少し被っているものの、足場やホールドはしっかりしている。ヌメリも少ない。次は階段のようなバンドを登る。落ち口を乗越す所は岩が出っ張っていて、水しぶきも相まって高度感を感じる。落ち口には巨木の流木が引っかかっている。ロープを出すのが無難である。途中支点をあえてとるならば、ハーケンを使うほかない。最終支点は流木でとれる。すぐ上に3mの滝もあるが容易だ。あとは右岸の石の小屋場の沢等々を過ぎ、再び開けた渓相となって小一時間で上二股だ。右股と左股の間に幕営適地がある。
<上二股~二ツ森登山口>
左股のキシネクラ沢、右股の泊り沢の合流地点が上二股だ。泊り沢は入り口からプチゴルジュで暗く、渓相は一変する。険悪では無いものの両岸は数十メートル切り立っていて、増水すると逃げ場は無い。3*2mの天然階段の滝や左岸からいくつかの枝沢を合わせると、5m魚止の滝。本当の魚止だ。さらに枝沢を合わせいくつか小滝を超え、顕著に左折すると25m黒滝が視界に飛び込んでくる。直登も不可能では無いだろうが、水量と時間を考慮して巻いた。手前の3m滝との間にある左岸のルンゼを使って巻く。高さにして40~50m、距離としては70~80m上まで詰めるとルンゼ左手の尾根に突き上げる。もっと手前から尾根に出ることもできそうだった。ただ、このルンゼはかなり脆いし、ロープを出したとしても支点に苦慮する。トップはビレイされないくらいの気持ちでロープの運搬に努め、上部の木で後続をビレイするのが適当だろう。実際2ピッチ要した。尾根へ出てその尾根を丁寧に下ると、滝の上に出る。懸垂下降は必要ない。息つく暇も無く、樋状15m滝だ。傾斜は緩い。ラバーソールは抜群のフリクションを発揮する一方、フェルトは滑りやすい。ラバー底のトップがフリーで登り、後続へロープを垂らした。滝の上部は、色の違う二種の岩盤の接合部を水が流れる、非常に奇異なナメ滝が続いた。二ツ森山頂より流下する枝沢を分けると、三股の両門の滝が現れる。3本の沢が複雑に合わさって、1本に集約される。しかも、それぞれ5~10m級の滝を複数掛けていて、圧巻のひと言だ。さらに10m滝、2段8m滝、3m滝と滝が連続した。いずれも適度な難易度で、一部はお助け紐などで通過した。水が途絶えるとガレ場のルンゼになる。源頭部の10m滝を左岸の泥壁から越え、再びガレ場のルンゼの急登を詰めると、傾斜が落ちつき、10分ほどの藪漕ぎで二ツ森登山道上のコルに出る。
末尾に私が参考にした書籍の一覧を付ける。
日本百名谷(新装版) 関根幸次 他編 白山書房 2000
日本登山体系(普及版) 1北海道・東北の山 柏瀨祐之 他編 白水社 2015
新版 白神山地 佐藤勉 坂本知忠 現代旅行研究所 1987
別冊つり人 渓流 ’89 つり人社 1989
源流の岩魚釣り 植野稔 冬樹社 1985
津軽白神山がたり 根深誠 つり人ノベルズ 2000
みちのく原流行 根深誠 つり人ノベルズ 2000